Blog : 2021, Turkey

 

コジャテペモスク (2021. 10. 29)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 10

Fig. 10 : 金曜日の礼拝が始まる少し前のコジャテペモスク(Kocatepe Camii)、アンカラ



 コジャテペモスクを訪れるにあたって、トルコ建築史家の山下王世氏、川本智史氏、鶴田佳子氏、西洋建築史家の日高健一郎氏の研究を読んだ。

金曜日の礼拝を眼前にして、私はここへ来た目的をしばらくの間すっかり忘れていた。   平川

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アナトリア文明博物館、四 (2021. 10. 22)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 8

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 9

Fig. 8 : アスランテペの石碑(Aslantepe Stele) / 900-700 BCE / LimestoneのAslantepe出土 / 石灰岩 / アナトリア文明博物館。
有翼円盤の下、ライオンの背中に立つ牡鹿の神(Karhuhas)と、座っている女神(Kubaba)が描かれている。
Fig. 9 (Public Domain) : Ra-Horakhtyの石碑(Ra-Horakhty Stele, N 3795) / 古代エジプト第22王朝(945-715 BCE) / 木に着彩 / H20.8 x W15.7 x D3.6 cm / ルーヴル美術館。



有翼円盤

 有翼円盤(Winged Sun Disk)は、紀元前にオリエント地域からイラン高原の間で栄えた様々な文化において、神性、王族、権力と関連付けられた太陽の象徴であった。
円盤に羽根があれば有翼円盤と言い、なければ太陽円盤(Sun Disk)と呼ばれる。これらのシンボルの起源は古代エジプトにあるという説が今日の主流を占めている。紀元前26世紀、古代エジプトの古王国第4王朝、ファラオスネフェル(Sneferu)の時代には、既にこれらが確認されており、エジプトでは有翼円盤の左右に蛇形記章(Uraeus)が頻繁に添えられていた(Fig. 9)。

有翼円盤創造の背景について種々の論説がある中、イギリスの天文学者E. Walter Maunder(1851生)によれば、古代エジプト人は皆既日食の観測から有翼円盤の着想を得た。皆既日食の際、月の掩蔽が生み出す皆既日食の輪郭からぼんやりと伸びる太陽大気(コロナ)の凝縮によるフレア、プロミネンスの流れは、実際に天空の鳥が広げた輝かしい翼のような印象を与えることがある。有翼円盤研究におけるこの皆既日食の観点は、19世紀に初めて持ち込まれ、天文学者の間で太陽大気の流れを「翼」と呼ぶことが流行した。彼によると有翼円盤は、エジプト神話に登場する隼の姿をした天空の神、並びに日の出と日没の神ホルス(Horus)と結び付いた。ホルスの眼球がそれぞれ太陽と月であることはこの皆既日食とも関係が深い。

アンカラからエジプトのある南方の空を眺めると、もうとっくに南中高度は過ぎ、ラー(Ra)がゲブ(Geb)の地下ドゥアト(Duato)へ早々と向かっている。このまま壮大なエジプト神話へ話を進めるとヌト(Nut、Nuit)の子供らが姿を現す。アペプ(Apep)に出会すのは避けたい。

 Fig. 8、9のように、有翼円盤の下で高位の神に謁見する絵の形式はエジプトが起源とされ、ヒッタイト、アッシリアでも繰り返し使われた。
その後有翼円盤がアラビア半島を横断しペルシア世界へ伝播したことはファラヴァハル(Faravahar)を見れば明らかである。ファラヴァハルは、ペルシア地域において、イスラーム化以前のササン朝までの主要宗教ゾロアスター教で最もよく用いられたシンボルの一つだ。ペルシアアケメネス朝の繁栄を象徴しているペルセポリスの壁には、造営者ダレイオス1世(Darius I, 522-486 BCE)が有翼円盤に乗る姿がファラヴァハルとして描かれている。

現代に太陽信仰こそ見当たらないが、有翼円盤の影響はStellantis N.V.の自動車ブランドの一つChryslerのエンブレム、BMWの車ブランドMiniのロゴ、オートバイメーカーのHarley-Davidsonのロゴの一つなどから分かるように、今日も我々の暮らしの中にある。

2021年12月04日に南極付近で皆既日食(中心食)が見られると、興奮気味に話していた知人をふと思い出した。当日彼が南極近くまで行くのか定かでないが、昔も今も我々は同じ様なものに心惹かれるようである。   平川

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アナトリア文明博物館、三 (2021. 10. 15)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 7

Fig. 7:新アッシリア帝国サルゴン王朝を築いたサルゴン二世(Sargon II)の像 / 8th C. BCE後半 / 玄武岩 / アナトリア文明博物館



サルゴン二世との休息

 ちょうど昼時になり薄暗い館内は森閑としている。さっきまで跳ね馬像の隣で端然とこちらを見ていた監視員はどこかへ行ってしまった。館内はまるで私一人になったようである。

時折何かが僅かに軋むような音がどこからか聞こえる。
果実酒を楽しむサルゴン二世(Fig. 7)の像が、こちらを一瞥し微笑しているように見える。旧約聖書に登場する北イスラエル王国を滅ぼし喜んでいるのだろうか。もう既に東方のウラルトゥ(Urartu)の王ルサ(Rusa I)を自害させ、カルケミシュ王国の王ピシリス(Pisiris)を負かし、加えて、南方にあるバビロニアの王メロダク・バルアダン2世(Marduk-apla-iddina II)の軍も鎮圧した後かもしれない。
彼は上機嫌で随分酒が進み、千鳥足になるのを堪えきれないようにさへ見える。
この時、彼はまだ、北方のタバル人(Tabar)が遊牧騎馬民族キンメリア人(Cimmerian)と同盟を組み反乱を起こすと夢にも思わないだろう。
サルゴン二世像と束の間の休息を取る。  平川

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アナトリア文明博物館、二 (2021. 10. 13)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 5

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 6

Fig. 5:ヒッタイト人によるチャリオットのレリーフ(アッシリア美術の影響を受けたSyro-Hittite様式) / 紀元前9-7世紀 / KargamışのGaziantep で発見された「Orthostats of Long Wall Basalt」の一部 / 玄武岩 / アナトリア文明博物館。
荷車に表された円形模様は盾を、馬の下に倒れる人物は瀕死の敵兵を表している(どの戦争を表しているか不明)。
Fig. 6 (Public Domain):Fig. 5 を発見したT. E. LawrenceとLeonard Woolley (right) / 1912-1913。



ヒッタイト王国のチャリオット

 ヒッタイトにおけるチャリオット(Chariot: 戦闘用馬車、一般に戦車と訳される)の存在が裏付けられるのは、紀元前17世紀後半、Hattusili Iの時代である。ヒッタイトの粘土板に記された馬術訓練書(Berlin Vorderasiatisches Museum蔵)は、東隣に栄えていたミタンニ王国のフルリ人(Hurrian)の馬術教師Kikkuliによるものとされている。
一説によれば、世界最古の戦車は紀元前3000年頃にメソポタミアのシュメール人が造ったとされており、東方からヒッタイトへ戦車技術が伝わったのはごく自然である。
紀元前2600年頃にシュメールの都市Urで作られたモザイク「Standard of Ur」(British Museum蔵)に、ラバやロバが牽引する車輪のついた荷馬車のような戦車が表すように、初期の戦車は4つの車輪を持つものが多く、パレードや葬儀の際に使用されるものだった。ラバ、ロバ、牛などが4輪の荷車を引くわけだから戦車として機動力は低かったようだ。

紀元前2000年の初めは、戦車製造が急速に進歩した時代である。この時期、ヒッタイトやエジプトなどの有力国が軍事用に二輪車を採用し、車輪もスポーク付きのものが多くなり軽量化が進んだ。荒地で転倒する荷車を素早く起こす必要があったし、両国は遠征も視野に入れた。また馬が初めて輓馬として利用された。古代の馬は現代の品種改良された競走馬と比べ随分小さかったが、それでも戦車の速度と機動性は以前より格段に上がり、戦車は青銅器時代に必須の軍事装備となった。戦車の性能と数が軍事力を大きく左右した。両国が戦車の改良を重ねたことは当時の記録から良く分かる。馬は二頭、スポークは4本から基本的に6本になった。
両国の戦車にはいくつか違いがある。例えば、初期のヒッタイト戦車には二人の戦士が乗っていたが、後に三人へ増やそうと試みた。荷車が重量に耐える必要があり、車輪は荷車の中央に取り付けられた。乗員が二人の時は、御者と弓または槍使いが乗り、荷車両側に盾を取り付けた。三人目を加えた理由は接近戦に備えるめだ。三人目は大きな盾を持ち自身含め三人を守った。Thomas Kelly CheyneとJ. Sutherland Blackの共著『Encyclopaedia Biblica』(1899-1903)によると、古代エジプト人によってアブ・シンベル神殿(Abu Simbel)に描かれた壁画「カデシュの戦い(Qadesh battle)」に当時のヒッタイトの戦車が表されている。その壁画によると、ヒッタイト戦車には手綱を握る操縦士、槍を構える攻撃兵、盾を持つ防御兵の三人の戦士が乗っている。
一方エジプトは二人乗りのまま性能を向上させた。馬と荷車を連結させる車軸を湾曲に加工し、車輪の位置を荷車の中央から後方へ移すことで足元の揺れを和らげた。攻撃は専ら弓を得意とした。ヒッタイトの戦車よりエジプトのそれの方が小型でしなやかだったため長距離移動に向いていた。しかし遠隔戦から接近戦へ状況が変わると脆かった。
両国の戦車改良はそれぞれの土地の地理的環境、例えば気候、地形、木材や鉱物資源に基づいていたことは明らかである。

そして紀元前1274年、Muwatalli II率いるヒッタイト軍と、Ramesses IIが指揮するエジプト軍がアムル(Amorite、現在のレバノン北部)の統治を巡り「カデシュの戦い(Qadesh battle)」を開戦する。主にオロンテス川(Orontes River)一帯で起きたこの戦争は、史上初の公式な軍事記録に残された戦争、特に大規模な戦車戦であった。
この戦争はよく知られた話であるから、ここに顛末を書くまでもない。
両軍多くの死傷者を出すばかりで一向に決着がつかないこの戦いは、停戦を挟み、結果世界で初めての和平条約が交わされた。この条約を記した粘土板はHattusaから出土し現在Istanbul Archaeology Museumに保管されている。

 Fig. 5に映る人物らと馬の愛敬ある表情からは、現代の戦争画が表す息の詰まるような重々しい雰囲気がまるで伝わってこない。だがこのレリーフは戦争画である。
既に武器や着物が奪われた後だろうか、馬の下で仰向けに倒れた人物は裸である。彼の脇腹には太い矢が刺さり呼吸もままならない中、必死で助けを求めている。母の名前を読んでいるのかもしれない。彼の母親も、彼の帰りを持ち望んでいるに違いない。
カデシュの戦いを経て交わされた和平条約は、人類の優れた選択であると思える。
この戦いから3000年以上も経過した今日、戦車の性能は劇的に進歩し彼らのチャリオット技術を振り返ることはもうないだろうが、私は彼らが結んだ平和的調和にぼんやりと憧れている。  平川

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アナトリア文明博物館、一 (2021. 10. 9)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 4


 私がアンカラへ来た一番の目的は、アナトリア文明博物館(Fig. 4)が所蔵する美術品の研究である。元々オスマン帝国時代にバザール(Bedesten)とキャラバンサライ(Kervansaray)だった建物を、トルコ共和国建国後の1938年に改装し始め1968年に完成した博物館だ。Fig. 4にある二つのドームがバザールの屋根の名残りである。当館での記録の詳しくは、今後私の展示で紹介したい。

私はここへもう一週間以上通っている。一昨日から入館時の荷物検査が緩くなった。
当館は屋外に置かれた彫刻ほど制作年代が新しい。そして館内に入ると経路に沿って古い年代順に考古物、美術品が配置されている。旧石器時代からの人類の進化、文化の発展を展示品を見ながら辿る構造である。現在から過去へ遡る鑑賞ではない。
旧石器時代の展示は照明が特に薄暗く、洞窟を歩いているような気になる。
旧石器時代と言えば、1949年に日本で初めて相沢忠洋が関東ローム層中から旧石器を発見したことを思い出す。歴史書における日本の旧石器時代は1949年から誕生し、発見以前は縄文時代まで日本列島に人類が移住していなかった、と考えられていた。

「日本列島における1949年の旧石器時代誕生」から、イギリスの歴史家Edward Hallett Carrを想起する。彼によれば、「歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話」である。またイタリアの哲学者Benedetto Croceは、「歴史というのは現在の目を通して、現在の問題に照らして過去を見ることに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく評価することである」と意味することを書いている。
彼らの言葉を参考にすれば、当館には現在の研究員が評価するものが並んでいて、その中でも私にとって受け入れられるものだけが自身の研究記録に残る、となるだろうか。
大分偏った過去の諸事件の認識が生まれることを気にしつつ、今日も旧石器時代の展示を歩く。  平川

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トルコ語の表記 (2021. 10. 2)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 3


 現在トルコ共和国に住むトルコ人は、トルコ語を話し、それをラテン文字で書き表す。
彼らの祖先であるオグズ(トゥルクマーン)は、11世紀のセルジューク朝時代に古オスマン語を使い、後オスマン帝国が栄えた16世紀頃から、それを古典オスマン語へと整えたが、アラビア文字表記のアラビア語とペルシア語の顕著な影響下にあり、加えてギリシャを含む隣国文化からの借用語が非常に多かった。古典オスマン語の文章によっては、トルコ語固有の単語がほとんど出てこないものすらある。ふと、「マミーはサタデーナイトに推しメンをググル」と言っていた知人を思い出した。多言語との混成が複雑でトルコ語の表記として定まった文字が無かったため、口語表記が難しかったようだ。
この成り行きは、当時既にテュルク系民族より遥かに歴史ある洗練された文化を持つペルシャ世界、アラビア世界、ギリシャ及びローマ世界に囲まれており、アナトリアはそれらの文化を繋ぐ重要な交易路として栄えた地理的条件に主な理由がある。ひょっとすると、かつて遊牧民族だった彼らに備わる柔軟な気質が多言語の受容を選ばせたのかもしれない。

オスマン帝国は第一次世界大戦敗北後に解体されるも、彼らはテュルク民族としてトルコ独立戦争で再びアナトリアを取り戻しトルコ共和国を建国した。
初代大統領のアタテュルクは、1923年から識字率の向上と先進国の水準に到達することを目指し文字改革の構想を始めた。現在のトルコ語のようにアルファベットと表記法が完成し、1928年11月1日の国民議会において、アラビア文字に代わってラテン文字の採用が立法化された。資料によると、アラビア文字よりラテン文字の方がトルコ語の音声構造に適しているそうだ。
1928年から新聞、雑誌、映画の字幕、広告及び標識が、1929年からは公的機関での連絡、そして銀行、政治的・社会的機関でのやり取り、本などの出版物においても、全て新トルコ文字が使用されることが義務付けられた。学校でもオスマン語アラビア文字の教科書が廃止されラテン文字での教育が始まった。加えて、新トルコ文字の読み書きが出来ない者は大国民議会の議員になれない旨が憲法に定められた。

この文字改革は、政教分離と世俗化を進めるトルコ共和国の西洋化、脱イスラムの為にも重要な改革とされた。なおこの時、文字だけでなく数字においてもアラビア文字を使用したアラビア・インド数字から現在のアラビア数字に変更された。
文字改革に伴い、トルコ語に多く使われていたアラビア語やペルシャ語からの借用語をなくし、純粋なトルコ語だけにすべきと考えたアタテュルクの提唱により、1932年にトルコ語協会が設立された。その後トルコ言語協会に名称を改めたこの研究機関は、現代トルコ語の発展に重要な役割を果たした。トルコ言語協会は1983年にアタテュルク文化言語歴史高等協会に組み込まれた。

1932年以前、トルコ国内の書き言葉においてトルコ語固有の語が使われる割合が35~40%ほどだったものが、この文字・言語改革によって、今日では80~85%に達している。   平川

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アンカラ城と新月旗 (2021. 9. 28)

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 1

Hiro Hirakawa, 平川ヒロ, in Ankara city, Turkey Fig. 2


 私はトルコのアンカラに来ている。
978mの丘の上にあるアンカラ城(Fig. 1)からはアンカラ市(Fig. 3)が一望できる。アンカラ城の始まりには諸説ある。創建年代を断定できない理由は、紀元前からアンカラ地域が様々な国によって統治されたことでそれぞれの記録が失われ、加えて侵略の犠牲となり破壊される度に建て直しや増築が行われたためだ。ある推定によれば、紀元前1500年以上前のヒッタイト王国時代から既にこの丘には城が築かれていた。

 現在の城には、トルコ共和国の国旗(Fig. 2)、「新月旗」(もしくは「月星章旗」)が力強くはためく。これはタンジマートの改革により1844年に定められたオスマン帝国の国旗に由来し、ほぼ同じデザインである。現在この三日月と星の組み合わせはイスラム教のシンボルとされるが、イスラム教が公式にシンボルとして採用したものではなく、小アジアではイスラム教の普及以前から使用されていた。このシンボルは、その後のオスマン帝国の旧領土、イスラム教またはトルコに関連する国の国旗などで多く見られる。この赤地の旗はトルコ革命でも重要なシンボルとなった。

トルコ共和国いわゆるトルコは、トルコ語でTürkiyeと書く。Türk(テュルク系民族)は元々、中央アジアのカザフステップからアルタイ山脈西部に起源を持つペルシャ文化の影響を強く受けた遊牧民族集団であり、外見上はモンゴロイドの特徴を持っていたが、長い時間を掛けて南西へ移る中で、アラブやアナトリアなどの住民との混血が進んだ。(Türkの語源については、羽田亨、小野川秀実、耿志民、Gerhard Doerfer、Peter B. Golden、Gerard Clauson、András Róna-Tasを参考にすると良い)

アナトリアは、中央アジアから遠く離れた位置にも関わらず、テュルク系民族が最も多く住んでいる。
歴史書のように少しドラマチックな言い方をすれば、アナトリアへ最初に流入してきたテュルク系民族は、その中でもオグズと呼ばれる遊牧集団で指導者セルジューク、及び彼を始祖とする一族に率いられ、アナトリアにセルジューク朝を建て、それまで半島を治めていた東ローマ帝国を駆逐した。オグズは移動の中でトゥルクマーン(テュルクに似た者の意)とも呼ばれるようになった。
テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝だが、セルジューク家の一派も早くからイスラームに改宗した。
セルジューク朝の後継国家であるルーム・セルジューク朝がアナトリアに成立した後も、モンゴル帝国の拡大で多くのトゥルクマーンが中央アジアからアナトリアへ逃れて来たため、アナトリアのテュルク化・イスラーム化は更に進んだ。

ルーム・セルジューク朝が13世紀中葉にモンゴル人の侵入で滅んだ後、混乱期のアナトリアで多くの侯国が誕生し、アナトリア西北部にあった、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯のビレジクで軍事力を持ち始めたトゥルクマーン、オスマン1世の率いた小国がオスマン帝国の元になった。オスマン帝国は14世紀の最盛期、古代ローマ帝国を思わせるほどの大帝国へと発展し600年以上も栄えた。

オスマン帝国が衰退した理由はいくつもある。1683年の第2次ウィーン包囲の失敗を機に領土の縮小が始まる。そして東西貿易路が地中海からインド洋と大西洋経由へ移ると外貨が入りづらくなった。18世紀以後はロシアの侵攻を受け始める。帝国内部には徴税請負制と大土地所有が普及し、これらを基盤としてアーヤーンとよばれる地主層が勃興してスルタンの専制支配を脅かした。更に、支配下のスラブ人、ギリシア人、アラブ人などの民族的自覚が高まりも独立運動も始まる。

19世紀、帝国内で各民族のナショナリズムが強まり諸民族が次々と独立、欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争(1919年-1922年))。また東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトゥルクマーンは1919年、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年、ここアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル・アタテュルクの下で帝国軍は結集して戦い、1922年に現在のアナトリア半島を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言。翌年、オスマン王家のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家、トルコ共和国を建国した。建国間もなく、それまでのアラビア文字がラテン文字に変更されたことは、まさに西洋化を象徴している。

 私にとってアナトリアの歴史は複雑で未だに理解の及ばない箇所もある。しかしアンカラ城に力強くはためく「新月旗」は、トゥルクマーンの開拓史、イスラム教、そして隣国と調和を取りながらTürkの領土としてトルコ共和国を安定させる願いが、しっかりと折り重なっているように思えた。   平川